医師紹介
[歯科医師]
■ 大川 剛生
・ 大阪大学歯学部歯科口腔外科
・ 松阪市民病院口腔外科
・ 済生会病院小児歯科
・ おおかわ歯科開設
・ 現在に至る
[歯科医師]
■ 大川 達輝
・ 私立高田中高等学校
・ 国立九州大学歯学部卒
・ 市立伊丹病院歯科口腔外科勤務
・ 宮崎歯科クリニック勤務
・ 現在に至る
所属学会
国際インプラント学会
(インプラント専門医取得)
日本歯周病学会
日本矯正歯科学会
日本臨床歯科補綴学会
日本口腔外科学会
[歯科医師]
■ 中務 真実
・ 国立 岡山大学歯学部卒
現在に至る
所属学会
日本歯科保存学会
・ 現在に至る
[衛生士婦長]
■ 種瀬 朋美
スタッフ紹介
Dr たつき 紹介
●小学生のころ 普段私の診療を受けていただいている方には、意外かもしれませんが、小学校低学年の時は、そんなに社交的な性格ではありませんでした。唯一の取り柄は運動が得意なことだけで、体育以外はオール普通という平凡な成績でした。小学校2年生の途中まではドッジボールに明け暮れる子供でした。 父はこの頃現在のおおかわ歯科を開院し、とても忙しい日々を送っていました。父は車バカだったため、休みの日はよく車のショールームに行ってた記憶があります。兄弟も多かったのでにぎやかな家庭だったと思います。 |
小学校2年生の時、豊ヶ丘小学校から西が丘小学校へ転校しました。4年生までは、平凡な成績でしたが、ここでサッカーと出会いました。 |
●サッカーとの出会い 今までドッジボールに夢中でしたが、友達が入っていたので、地元のサッカー少年団に入りました。初めはボールを蹴ることもまともにできませんでしたが、どんどんのめり込んでいきました。半年が経った頃やっと試合に出れるようになりました。ポジションはFWで初めてゴールを決めた時のことは今でも鮮明に覚えています。ちなみに1点目はヘディングでした。 ●高橋塾 高橋先生との出会い サッカーに夢中でしたが、勉強の方は全然ダメで、両親の助言もあり塾に行くことになりました。しかしこれは 親の策略で実は津市で一番厳しい進学塾でちょっと成績上げたいと思う私は知る由もありませんでした。 |
入った時の模擬試験は下から3番目の落ちこぼれでした。周りはお医者さんの子供ばかりで異様な感じがしていました。 ここで高橋先生に出会いました。高橋先生は、一言で言うと恐ろしい先生でした。問題が解けないと頭や頬をぶたれ、いつも塾に行くのがとても嫌でした。算数や国語はなかなか伸びず、いつも叩かれている出来の悪い生徒 でした。子供ながらに劣等感を感じていましたが、たまに遊びに来てくれる高田中学校に合格した先輩の話を 聞いて高田に行きたいと思っていました。 5年生からサッカーと塾の両立を迫られました。サッカーは努力の甲斐あり、三重県の選抜メンバーに選ばれる レベルまで上達していました。しかし勉強の成績は相変わらずの低空飛行でとても苦労しました。勉強に関して は、何をやっても他人の倍はかかる鈍臭い子供だったと思います。自分は人よりできないからコツコツやって行 こうと思い、ここから少し変わっていきました。ここでサッカーをやっていることが助けとなりました。いつも リフティングをコツコツやって最初は8回しかできませんでしたが、1000回以上できるようになっていました。 勉強もこのリフティングと同じで何度も何度も反復していきました。覚えが悪かったので、何回も何回もノートに書いて少しづつ必死で覚えていきました。 |
●厳しかった父 なかなか成績があがらず、夜中に父が横について勉強を教えてくれました。今でも覚えているのは、理科で月の満ち欠けについてなかなか理解できず、あまりの理解なさに思いっきりぶたれ、真面目に覚えろと怒鳴られたこともありました。 よく泣きながら勉強した覚えがあります。 ●届かなかった夢と届いた夢 勉強とサッカーの両立はとても大変でした。塾が終わってすぐサッカーの練習といつも11時過ぎまで勉強とサッカーに毎日明け暮れました。小学生6年生の夏、ウチのチームは県大会決勝まで勝ち上がりました。 |
あと1つ勝てば全国大会というところで、敗れてしまいました。2年生から目標にしていた夢が打ち砕かれた瞬間でした。その時、初めて悔し涙を流しました。これでサッカーは終わりなんだ、そんな瞬間でした。ここから勉強だけに集中していきました。この時点で高田中学の合格可能性は30パーセント未満とかなり厳しい状態でした
が、サッカーで培ったコツコツ精神で6年生の冬奇跡が起こりました。高田に合格できたのです。自分も親も信じられず、とても家族で喜んだのを覚えています。合格後、高橋先生に対する思いも変わりました。今まで、怖いイメージしかなかった先生に合格したと電話で報告した時、お前は出来はあまりよくなかったが、努力してたので何とか合格させてやりたかったんやと言われとても喜んでくれました。高橋先生の厳しさが愛情からきているものだと知りとても感謝できた瞬間でした。 |
●5年生、6年生の担任杉田先生との出会い 話は前後しますが、あまり社交的でなかった私は杉田先生との出会いで変わった気がします。杉田先生のモットーは何事も積極的に全力で一人はみんなのためにみんなは一人のために、でした。杉田先生のクラスにいるうちに今まで積極的に学校行事に関わったことがなかった私が、5年生の時自ら立候補して学級委員長になり、5年生6年生と2期生徒会副会長をやるまでになっていました。2年生の時の自分からは信じられない進歩でした。 |
●高田中学、高校時代 高田中学校に入学したときは、仏教学校独特の荘厳な入学式やお香の匂いに高田に入ることができた喜びを感じていました。周りはみんなとても頭が良く最初は授業についていけるか不安でした。中学校の時くらいから、父が歯科医師だったので、将来自分は同じ職業につくだろうと漠然思っていたような気がします。しかし、高校生の時は父に対する |
反抗もありました。進路について話したことがあり、父は、医療系以外の職業に着くなら高校なんてやめてしまえと言っていました。自分はいろんな可能性について考えるようになっていたので到底受け入れられるものではありませんでした。それから成績は一気に下降し気がつけばかなりまずい状態になっていました。高校2年生の頃になるといろいろと考えるところもありやはり歯科医師になろうと思うようになりました。
そこからは目標に向かい勉強していた気がします。そして、受験。寒い雪の日、センターで失敗した私はその年、大学生になることはできませんでした。 |
●辛かった浪人時代 受験に失敗した春、ショックでなかなか勉強に身が入りませんでした。まわりはみんな大学生になっているのに、なれてない自分に対する劣等感から自分が浪人していることをなかなか受け入れられなかった気がします。しかし、国立の歯学部にいきたい一心で再度1日14時間の猛勉強を再開しました。受験が近づくにつれて、次は失敗できない、もう後がないというプレッシャーで押しつぶされそうでした。そんな時、自分が解いた参考書、問題集、書いたノートを積み上げて、自分は誰よりもたくさん解いて、たくさん書いて1年間でこれだけやったん だから大丈夫と自分を励まして、なんとか国立九州大学歯学部に合格できました。 ●大学1から2年生のころ 最初の2年は、一般教養がメインでお世辞にも真面目な学生とは言えませんでした。バイトに明け暮れひたすら遊んでいた気がします。家庭教師、焼肉屋のホールスタッフ、テレフォンオペレーター、ゲームセンターのスタッフなどたくさんのバイトを経験しました。バイトに明け暮れていた時、焼肉屋の中村店長と出会いました。中村店長は、接客のプロのような人でした。おいしい料理を提供することは当然にしていかに楽しい時間をお客様に過ごしていただくかに真剣に向き合い、お客様満足度を上げることについてとても熱心な人でした。店長に会いたくてくるお客さんもたくさんいました。このとき、自分も歯科医師になったら、治療だけではなく、先生に会いきたいと思えるような医院を作りたいと思いました。 ●専門教育から病院実習 学年が進むにつれて、より専門的な教育が始まると、バイトどころではなくなっていました。最初に衝撃を受けたのは、解剖でした。検体を目の前にして身が引きしまる思いでした。歯科といえども、患者様の体の一部を治療させていただく職業にこれからつくんだと実感した瞬間でした。 ●研修医、勤務医時代 研修は兵庫県の伊丹病院口腔外科で行いました。 この研修はものすごくきつかったです。ほぼ、土日も病院に出向き入院患者さんのケアをし、遊びに行ってるときでもナースからの電話で呼び戻されたりと心が休まる時間がありませんでした。体重は減り、血便が出るほど追い込まれていました。しかし、外科部長が親戚だったため1年目から小手術含めて200件以上のオペを執刀させていただきました。研修医では考えられない経験をつませていただきました。 ●そしておおかわ歯科継承 三重でたまに会う父を見て、最初に思ったことは、父親もだいぶ老いたなというのが感想でした。今まで20年以上にわたり一人で開業してきた大変さは、今の自分だから理解できるものだと思います。医院を継ぐ、それは良い所も悪い所も継ぐということです。いろいろ改革したいと思うところもあり現在少しずつですが医院が変わってきています。 私が、目指す医院は、快適に過ごしてもらえる医院です。患者様は、治療自体がストレスになるので、できる限り治療以外では快適に過ごせる医院づくりを目指します。バイト時代の中村店長との出会いが影響しています。それはスタッフの対応や院内の環境づくりだと思います。 次に、適切な治療説明がうけられる医院を目指します。 治療がうまくいっても満足いただけない理由のひとつに説明が十分伝わっていないことがあります。出来るかぎり、いろんな説明ツールを使ってわかりやすい言葉を使いご納得いただけることを目指したいと思います。 こうして2011年4月より理想のおおかわ歯科をつくろうと頑張らせていただいております。 |